尾張の染は慶長十五年(一六一〇年)、徳川家康より家臣の小坂井新左衛門が紺屋頭の御墨付を賜り、尾張・美濃の染色業を支配したことが発祥とされる。
その後、尾張藩 七代目藩主 宗春が、幕府の享保の改革に反して繁栄策を採り、歌舞遊芸等を奨励して消費文化の華を咲かせ、江戸・京都より各種の職人が往来した折に当時の新しい友禅染の技法も伝わったと云われる。
正春失脚後、元来の質素な気風に戻るに伴い、衣装の友禅模様も色数を控えた渋い単彩濃淡調の素朴なものとなり、現代の名古屋友禅の源流となった。
弘化五年(一八四一年)「尾州・濃州紺屋惣帳」には約千二百軒の業者が登録され、江戸時代末期に当地方で染められた友禅染作品も現存し、染色・刺繍等に活躍した絵師に織田杏斉・渡辺清・小田切春江の名も残されている。
名古屋友禅の技法は他産地と変わらないものの、糸目糊は亜鉛末を入れて糊置が行なわれ、又、黒の地染に名古屋独特の「トロ引黒」の技法を用いて黒の色艶を深めて変色を防ぐなど、新たな特色も加えられて来ている。
このような伝統に基づいた名古屋友禅は、友禅師による一品手づくりの伝統的工芸品として最も格調高い模様染である。