百年読書会感想文集
(2009.04〜2010.03)

『斜陽』 『楢山節考』 『あ・うん』 『坊ちゃん』 『俘虜記』 『おとうと』
『砂の器』 『ノラや』 『銀河鉄道の夜』 『雪国』 『オーパ!』 『金閣寺』

2009年4月
『斜陽』
 ドラッグ(阿片ですが)が出てきて、略奪愛(不倫ですが)が出てきて、流産が出てきて自殺が出てきて死に至る病とそれに伴う死別が出てきて。ケータイ小説のお家芸かと捉えていた刺戟的なアイテムが、この時点で既にすべてあったのだと知りました。
 そーゆー目で読めば、爵位からの凋落も、「何不自由ない現状から苦労する道への逸脱」と普遍化することで今の若者向けにだって十分に通用するアイデアに過ぎないと解るし。M・C宛に送る3通の手紙なんかストーカの仕業そのもの、いっそ迷惑メールだし。
 太宰が現代に於いてなお新しいのか。ケータイ小説が古臭いのか。はたまたこのストーリィこそ、応用が利き、恒久に耐えうる定番であるのか。
 いずれにせよ太宰治は、今の世にあればさぞ立派に売れっ子のケータイ小説作家たり得たろうな、と思えるのです。
(347文字)

2009年5月
『ナラヤマヴシコー』
 人間は考える葦だから「生きたい」と考え、望んでしまう。だから死に絶えちゃうよーな苛酷な環境下でも工夫して生き、故に苦しみ、死を恐れることになる。
 宗教は、それら苦しみからメンタルに救ってくれる。仏教では「死んだら、仏様になれる」と説く。引き際の潔さに美学をみるのはそこからの派生だろう。
 年恰好が合えば番わせるって、ペットや動物園の繁殖と変わらない。与えられた相手と意志の介在もなく夫婦になるのがフツーだなんて、人間が家畜並って状況だ。
 そこに加えて「泥棒に対処する際に履き物を履いてはいけない」とかの理不尽が罷通っているって、これは全体主義だ。
 仏教観で理論武装した、物わかりのいいおりんなんか、世が世なら為政者の思う壺だ。きっと特攻もするし切腹も厭うまい。おりんを美化してはいけないと、理性で思う。又やんの方が人間的だ。豊かな現代になお問題としてある老齢化のモデルたり得るのは又やんであろう。
(399文字)

2009年6月
『あ♥ウ〜ン』
 これはホームドラマのシナリオだ。観客の捉え方までもがすべて指示されている。
 おそらく未だ小説作法が洗練されていない時代に書かれたものだからではないかな。現代のミステリィ小説には導入されている「視点人物の固定」がちっとも守られてない。この物語は神の視点よりもっと凄い、“自由な書き手”の視点で綴られている。例えば『蝶々』で仙吉が君子の自殺をとめる件にある「二度と着ないつもり」は君子、「どうしたらいいのか」は仙吉だ。語り部を移動させすぎ!
 この話を芝居にした時、役者には都合がいいだろう、どんな心情を表現するよう演じればいいか、全部書いてある。
 そしてそれは“読み手”の視点でもある。読者は、向田邦子が望んだ以上でも以下でもなく、まんまを受け取る。現象の正確な記述だけがそこにあり解読や解釈は必要とされない。読者に許されるているのは感想のみ。
 向田邦子は自分の拵えた世界をただ伝えたいばっかしなんだ。
(400文字)

2009年7月
『坊ちゃん』
 主人公の“坊ちゃん”は物語の冒頭で、乱暴者として紹介される。でも単に乱暴なだけでは読者の共感が得られまい、大学卒の数学教師というインテリの面を併せ持つと語られ、しかし終いにはやはり策略はすべて山嵐に任せて暴れる役に徹してる。考えなしではない、でも理屈を捏ねるよりすぐ行動に出るとゆーキャラクタなんだ。そんな主人公、痛快に決まってんぢゃん!
 ものすごく共通点のある主人公を知っている。漫画『ワンピース』のモンキー・D・ルフィだ。導入部で早々に、自分の体を刃物で傷つける衝撃シーンがあるところまで一緒(坊ちゃんは右手の親指、ルフィは左目の下)なんだ。明治の代にあっても平成の今に於いても、いきよいのあるパワァ全開の主人公は大衆に受け、支持される訳ですね。
 だから『坊ちゃん』の文庫のカヴァ絵は『ワンピース』の作者の尾田栄一郎に描かせたら絶対にいいよ。『坊ちゃん』って漫画的だし。びッたしなんぢゃ?
(397文字)

2009年8月
『フリョキ』
 「もし私が小説家であれば、種々の事件を設けることによって、人物を躍動せしめることが出来るであろう」の件で判った。この語り口は『刑務所の中』と一緒だ。
 状況を観察し描写し、行動を解析し論じる。でもストーリィはなく、登場人物の性格も物語に合うよう設定されたもんではない。
 確かに興味深い。しかし次が早く知りたい!と思わせる展開でもないため、読み進めるのが苦痛だ。そもそも分析が鋭く深い故に、理解し受け容れるのにすんげい時間が掛かるし。さらには本がヴわつい。幾度、もう投げ出そうと思ったことか!
 同じ読むなら漫画の短編集である『刑務所の中』を推したい。また、人の心を見透かし暴露してくれる読み物なら、『考えなしの行動?』が写真に添えられたコメントとゆう趣向でトッツキ易い。『すぐれた仕事は紙ナプキンから始まる。』は解釈の結果を実際に活かす方法まで教えてくれて親切だ。
 読ませる工夫って、進化してると思う。
(400文字)

2009年9月
『おトート』
 これぞ小説だ。やっと小説に出わった!って感じ。この本は映像化できない。映像化した時点でよさが削ぎ落ちる。
 登場人物がなにを考えたかが書いてある。どう捉えた故に行為に到ったかが解析してある。それって文章を以て伝えるならではぢゃんね?
 もちよん『おとうと』の優れている点はなにが書かれているかだけに留まらない。どう書かれているか、どんな言葉が選ばれているか、そしてどう省略され展開されているかまでもがスマートで綺麗だ。この本にこの文章は見事にウッテツケだった。
 さらには。最大の長所は「物語のなんでもなさ」にこそある。こんなフツーの話! どこにでも転がっているよーな、ドラマティックですらもないよーな地味を、よくぞここまで読ませる文章で認めたもんだ。その文章力が凄い。
 映像化になんて絶対に向かないよーな一家族のつまんない顛末を、でも言葉の遣い方一つで幸田文は“小説”に仕立て上げちゃってる訳だ。素敵。
(400文字)

2009年10月
『砂のんつわ』
 ミステリィの文法が未成熟だったろう発表当時の状況をこっちが考慮してやる必要はなく、劣っている点はそのように指摘すべきが今現在読む意味だろう。ニュートン力学が古いから間違っていたなんてことはない。いかなる時代でも完成されるものは完成されるべきであり、不見識は不見識、未熟は未熟である。
 なんだこの小説で描かれる推理の雑さは!! 思いつきと行き当たりばったりと偶然だけでどんどん解かれていく真相て!
 映画でも小説でも、都合がよすぎる展開が罷通る場合がある。それは百歩譲って認めてやってもいい。「たまたまそーなった事例が創作として描かれた」と捉えられるからだ。ノンフィクションなんて特にそう、巧くいった場合だけが後世にまで語り継がれる訳だ。
 しかしこの小説のテキトーさは度が過ぎている。こんな作者の自分勝手を今の時代に読まされてもなあ。森博嗣や京極夏彦がミステリィ界に必要だった訳だとよっく解ったよ。
(398文字)

2009年11月
『ノラヤ』
 別れに際し「引導を渡してもらう」ことが如何に大事か、が説かれている。
 映画『世界の中心で、愛をさけぶ』では長澤まさみが一番可愛い時に死ぬから、一回も喧嘩をしたり嫌なとこを見せたりせずにいなくなるから、いつまでも、十数年が経過しても、新たに柴咲コウなんてゆう綺麗なカノジョができても、引きずってた! 別れる時は二度とアクセスしたくないほど嫌いになって別れるのが正解だと勉強になった。
 『ノラや』でノラは姿を消す。百鬼園ぢぢいも最初は高を括り、戻ってくるものと思い随筆を発表する。やがて帰ってこないが引っ込みがつかない。随筆上でも、本当に待つ心でも、引っ込みがつかないのだろう。
 やっと救われるのはクルツの死を看取ったからだ。死に抗っても仕方がない程度の冷静さは持ち併せていたらしい百鬼園ぢぢいは、死別を経なきゃ「諦め」に到達できなかった。クルツは死をもってノラへの思いに引導を渡すために飼われたのだ。
(400文字)

2009年12月
『銀河鉄道の夜』
 『銀河鉄道の夜』って詩的過ぎる。子供には全文暗唱を強制する教育を施してはどうか。文章を認める際に、単に的確なだけでなく音も綺麗な言葉を選ぶことがいかに心地よいか、幼いうちから刷り込みをしてやったらいい。だからNHKの「にほんごであそぼ」で朗読を聴かせているのは正しい。
 本来なら宗教色の濃い創作って避けたく思う。説教臭いもの。でも『銀河鉄道の夜』のキリスト教テーストは許そう、タイタニック號の沈没をモチーフにしてるくらいだし。
 認め、身を委ねれば、心地よい言葉で語られる思想は甘美だ。個人的に一番好きなセンテンスは「ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」って箇所。意味内容に楯突いたり反論する氣はない。こう言ったら“感動的”だし思想として“美しい”し言葉として“氣持ちがいい”、そこがいい。この通りに思って生きる必要はないがこのフレィズを出せるように生きたい。
(400文字)

2010年1月
『ユキグニィ』
 島村の妻と子が可哀想だ。単なる女道楽の話か。そんなフルマイが横行して憚らない創作なんて、嫌悪する。
 それでも背徳故に甘美という嗜好もあろう。完全に男目線で都合のいい倫理観の低い状況が狒狒爺どもには理想たり得るんだろう。
 描かれている駒子の様子は、こんなんしたら男が嬉しいに決まっている行動ばかりだ。駒子の真意は知らない。映画『さくらん』で言っていた、商売女の手練手管かもしれない。それは島村には一切カンケーがない。
 島村は自分が観察して可愛いと思う駒子を捉えている。それでぢうヴんなんだ。安部慎一の漫画『美代子阿佐ヶ谷気分』の美代子が自室にいてくれたら男は嬉しい。安部慎一に映る美代子は美代子のすべてではないだろうが創作に描かれるミューズとして完成されている。駒子もそう。
 島村の目はきっと曇ってる。小太りの分際で本当の自分が惚れられてると思い込んでいるなんて。その曇りがしかし綺麗な描写を生んだ。
(400文字)

2010年2月
『オーパ!』
 本作最大の特長、“読み易さ”は発表形態に依るものだろう。雑誌で連載されたルポだけあってストレスをまったく感じず読めた。
 近藤史恵は1月23日15時5分付のtwitterにて〈自転車のパーツ名とかを説明なしに出すので、詳しい人はかえって驚くのですが、読む方は「そういうパーツがあるんだ」程度の情報でOKみたいです〉と言っているが、まさに同様の手法が採られてる。地名にしても正確な位置は読者にはカンケーない。「そういう場所があるんだ」でスムースに読み進められブレーキもかからない文章の削ぎぐわいが秀でている。
 一方で。集英社の編集長に対するプレゼン内容と吊られた3頭の写真から、メーンエヴェントは当然ピラルク釣りだと思ってた。それが第四章のテータラク以降、もう出てこないなんて! これぞその回限りでも目を惹くよう構成する読み切り連載ルポの遣り口か、小説の伏線と盛り上げを期待したこっちが間違いだったか。
(400文字)

2010年3月
『金閣寺』
 溝口が『金閣寺』を書き記したのは単に自己顕示慾の故であろう。ただ注目を浴びたいのだ。
 だからつって「伝わるよう」に書く氣はないっぽい。読みづらく、一読で意味が取れない“凝った”(笑)言いまーしを多用してるこの作風って、酔ってるだけでは?
 第六章にて「矜り」と表現され書かれているとおり、人に解ってもらえないのは溝口にとってステータスだ。読みにくく取っつきにくいのが『金閣寺』とゆう小説の存在証明なのだろう。
 つまりはただの根暗の自己満足に過ぎない。但し『金閣寺』発表当時と違い、我々は根暗文化が全盛だった80年代を既に経てきている。小川美潮が「暗いのやめた♪明るいのが一番楽ちんだい♪」と歌ったように、根暗イーコール辛苦の道を好み悲劇の主人公を氣取って偉そうぶりたいだけの自己陶酔だと、解析は済んでいる。
 ああ! 「辛がる」のを佳しとし苦行を自らに課すなんて、溝口には坊さんの資質あったではないか。
(400文字)

読了のをヴぉえ書きに戻る/21世紀の残り香に戻る